監査基準における「正当な注意と懐疑心」とは何か?
公認会計士が監査業務を行うにあたって、専門的知識や独立性とともに不可欠とされるのが「正当な注意」と「職業的懐疑心」です。監査基準第二「一般基準」の3では、監査人がこれらを保持して監査を実施しなければならないことが明確に規定されています。
しかし、「正当な注意って、普通の注意と何が違うの?」「懐疑心を持つって、クライアントを疑ってかかるということ?」「経営者を信頼しながら、同時に疑うってどういうこと?」といった疑問をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。特に、監査の実務経験が浅い方にとって、この「懐疑心」という概念は、理解しにくく、また実践することが難しい要件の一つかもしれません。
そこで今回は、監査基準第二「一般基準」の3である「正当な注意と職業的懐疑心」について、その意義、具体的な内容、実務上の重要性、さらには実際の監査現場での適用方法まで、詳しく解説いたします。実際の監査事例も交えながら、これらの概念が監査品質を左右する重要な要素であることをご理解いただければと思います。
監査基準第二 一般基準 3「正当な注意と懐疑心」の条文内容
まず、監査基準において「正当な注意と懐疑心」はどのように規定されているのでしょうか。
監査基準第二「一般基準」の3では、「監査人は、職業的専門家としての正当な注意を払い、懐疑心を保持して監査を行わなければならない」と定められています。
この条文は、一見するとシンプルですが、実は監査人の職業的姿勢の核心を表す極めて重要な規定です。条文を丁寧に読み解くと、二つの重要な要素が含まれていることがわかります。
第一に、「職業的専門家としての正当な注意」です。これは、単なる一般的な注意ではなく、公認会計士という高度な専門職業人として期待される水準の注意義務を意味します。つまり、一般人であれば見逃してしまうような事項であっても、専門家である監査人であれば気づくべき事項については、適切に発見し対応することが求められるのです。
第二に、「懐疑心を保持して」という部分です。これは、監査人が経営者から提供された情報や説明を無批判に受け入れるのではなく、常に批判的な視点を持ち、その妥当性を検証する姿勢を保つことを要求しています。この「懐疑心」こそが、監査を単なる形式的なチェック作業ではなく、実質的な保証業務として機能させる鍵となるのです。
これら二つの要素は、相互に関連しながら、監査人が高品質な監査を実施するための基盤を形成しています。正当な注意だけでは受動的になりがちであり、懐疑心だけでは根拠のない疑念に陥りかねません。両者が組み合わさることで、監査人は適切なバランスを保ちながら、効果的な監査を実施することができるのです。
「職業的専門家としての正当な注意」とは何か
それでは、「職業的専門家としての正当な注意」とは、具体的にどのような概念なのでしょうか。
法律用語では、一般に「善管注意義務」という概念があります。これは、「善良な管理者の注意義務」の略称であり、ある職業や地位にある者が、その職業や地位に応じて通常期待される注意を払う義務を指します。監査における「正当な注意」も、この善管注意義務の一種と考えることができます。
ただし、監査人の場合には、単なる一般的な善管注意義務ではなく、「職業的専門家としての」という修飾語が付いています。これが極めて重要なポイントです。つまり、監査人には、高度な専門的知識と経験を有する職業的専門家として、通常の注意よりもはるかに高い水準の注意が求められているのです。
具体的には、以下のような要素が含まれます。第一に、専門的知識の適用です。監査人は、会計基準、監査基準、関連法令などの専門的知識を駆使して、財務諸表の適正性を評価しなければなりません。専門家であるからこそ気づくべき不適切な会計処理や開示の不備について、見逃すことは許されないのです。
第二に、慎重な判断です。監査においては、会計上の見積りの合理性、継続企業の前提の妥当性、内部統制の有効性など、様々な場面で監査人の職業的判断が求められます。これらの判断を行う際には、安易に結論を出すのではなく、十分な監査証拠を収集し、慎重に検討する必要があります。
第三に、適切なスキルの保有です。監査人は、監査を適切に実施するために必要な技術的スキルを有していなければなりません。例えば、統計的サンプリング技法、データ分析手法、ITシステムの監査手法などです。複雑化する企業環境に対応するためには、継続的にスキルを向上させる努力が必要です。
第四に、適時性の確保です。監査人は、監査の過程で発見した重要な事項について、適切なタイミングで経営者や監査役等に報告し、是正を促す必要があります。期末になってから問題を指摘するのでは、対応が間に合わないこともあります。専門家としては、早期に問題を発見し、タイムリーに対応することが求められます。
これらの要素を総合すると、「正当な注意」とは、監査人が持てる専門的能力を最大限に発揮し、誠実かつ慎重に監査業務を遂行する態度を意味すると言えるでしょう。決して手抜きをせず、形式的な確認に終始せず、実質的な検証を行うという、プロフェッショナルとしての責任感が、正当な注意の根底にあるのです。
「職業的懐疑心」の意味と重要性
次に、「職業的懐疑心(Professional Skepticism)」について詳しく見ていきましょう。この概念は、監査の品質を決定づける最も重要な要素の一つです。
職業的懐疑心とは、監査人が監査を実施するにあたって、提供された情報や証拠に対して批判的な視点を持ち、相反する監査証拠に注意を払い、監査証拠の信頼性について疑問を持つ姿勢を指します。簡単に言えば、「本当にそうなのか?」「他に説明はないのか?」「証拠は十分なのか?」と常に問い続ける態度のことです。
ただし、ここで注意すべきは、職業的懐疑心は「疑い深さ」や「不信感」とは異なるということです。監査人は、経営者を最初から詐欺師だと決めつけるわけではありません。むしろ、経営者の誠実性を基本的には信頼しつつも、その誠実性に頼りきることなく、客観的な証拠によって裏付けを取るという、バランスの取れた姿勢が求められるのです。
職業的懐疑心が特に重要となるのは、不正リスクへの対応です。経営者による不正は、巧妙に隠蔽されることが多く、表面的な確認だけでは発見が困難です。監査人が懐疑心を欠き、経営者の説明を鵜呑みにしてしまえば、重大な不正を見逃す可能性が高まります。
また、会計上の見積りの検証においても、懐疑心は不可欠です。経営者は、見積りにあたって様々な仮定を用いますが、その仮定が楽観的すぎたり、恣意的であったりする可能性があります。監査人は、経営者の見積りを批判的に評価し、代替的な仮定の合理性も検討する必要があります。
さらに、異常な取引や複雑な取引に遭遇した際にも、懐疑心が重要な役割を果たします。通常とは異なる取引パターンや、経済合理性が明確でない取引については、その背景にある真の目的を理解するために、深く掘り下げた調査が必要となります。
ここで、大手監査法人のD会計士の経験した事例をご紹介しましょう。D氏は、ある上場IT企業の四半期レビューを担当していました。
期末近くの大型契約
第3四半期の末日に、クライアント企業が大型のソフトウェア開発契約を締結し、売上を計上していました。
経理部長:「期末ギリギリでしたが、大手企業との契約がまとまりました。これで今期の目標達成です」
D氏:「おめでとうございます。ところで、契約書を見せていただけますか?」
契約内容の精査
D氏は契約書を詳細に確認しました。すると、いくつか気になる点が見つかりました。
D氏:「この契約、検収条件が曖昧ですね。それに、顧客側に広範な解約権が認められているようですが・・・」
経理部長:「まあ、大手企業相手なので、ある程度の条件は飲まざるを得なくて」
懐疑心が働く
D氏は、さらに質問を続けました。
D氏:「過去にこの顧客との取引実績はありますか?」
経理部長:「いえ、今回が初めてです」
D氏:「契約交渉はいつから始まっていたんですか?」
経理部長:「実は...期末の1週間前からです」
深堀りの調査
D氏の懐疑心はさらに高まりました。期末直前の新規顧客との大型契約、曖昧な検収条件、広範な解約権——これらは収益認識の要件を満たしていない可能性を示唆していました。
D氏:「実際の開発作業は始まっていますか?顧客からの着手金の入金は?」
経理部長:「それが、まだです。来期から本格的に始める予定で・・・」
問題の発覚
D氏の追及により、この契約が実質的には「枠組み合意」に過ぎず、具体的な作業範囲や対価が確定していないことが判明しました。収益認識の要件である「履行義務の充足」が全く満たされていなかったのです。
D氏:「申し訳ありませんが、この売上計上は認められません。収益認識基準の要件を満たしていません」
経理部長:「でも、営業部門からは目標達成のために何としても」
D氏:「お気持ちはわかりますが、会計基準に準拠しない処理は容認できません」
経営陣への報告
D氏は、監査チームのパートナーとともに、経営陣に状況を報告しました。
CFO:「確かに、営業部門が無理を押し通そうとしていました。監査人にしっかり見ていただけて、むしろ良かったです」
D氏:「四半期報告書の提出期限までに、訂正していただく必要があります」
適切な会計処理への修正
結果として、企業は当該売上を取り消し、適切な会計処理に修正しました。D氏の職業的懐疑心が、不適切な会計処理を未然に防いだのです。
後日、パートナーとの振り返り:
パートナー:「よくやったね。どこで違和感を感じたの?」
D氏:「期末ギリギリの大型契約って、経験上『危険信号』なんです。特に目標未達の会社では」
パートナー:「その嗅覚こそが、職業的懐疑心だよ」
この事例が示すように、職業的懐疑心とは、表面的な説明に満足せず、「なぜ?」「本当に?」と問い続ける姿勢なのです。
「正当な注意」と「懐疑心」の関係性
それでは、「正当な注意」と「職業的懐疑心」は、どのような関係にあるのでしょうか。この二つは、別々の概念でありながら、相互に補完し合う関係にあります。
正当な注意は、監査人が監査手続を適切に実施し、十分かつ適切な監査証拠を入手するための基盤となります。一方、職業的懐疑心は、その監査手続の実施において、どのような視点や態度で臨むべきかという心構えを示しています。
例えば、売掛金の実在性を確認するために、取引先に対して確認状を送付するという監査手続があります。正当な注意を払うということは、確認状を適切に作成し、適切な取引先に送付し、回答を確実に入手し、その内容を慎重に検討するということです。
しかし、それだけでは不十分です。職業的懐疑心を保持するということは、回答が返ってきた際に、「この回答は本当に取引先から直接送られてきたものか?」「経営者が介入した可能性はないか?」「回答内容は帳簿残高と整合しているか?」といった批判的な視点を持つことを意味します。
つまり、正当な注意が「何を、どのように行うか」という行動の側面であるとすれば、職業的懐疑心は「どのような姿勢で臨むか」という心理的態度の側面と言えるでしょう。両者が揃って初めて、監査は実効性を持つのです。
逆に、どちらか一方が欠けると、監査の品質は著しく低下します。正当な注意を欠けば、監査手続が不十分となり、重要な虚偽表示を発見できません。懐疑心を欠けば、たとえ十分な監査手続を実施しても、表面的な確認に終始し、隠された不正や誤謬を見逃すことになります。
したがって、監査基準がこの二つを同じ条文の中で規定しているのは、決して偶然ではなく、両者が一体となって監査人の職業的姿勢を形成することを示しているのです。
正当な注意と懐疑心を欠いた場合のリスク
それでは、監査人が正当な注意や職業的懐疑心を欠いた場合、どのようなリスクが生じるのでしょうか。結論から申し上げると、監査の失敗につながり、監査人としての責任を問われる可能性が極めて高くなります。
第一に、重要な虚偽表示の見逃しです。正当な注意を欠いた監査では、必要な監査手続が省略されたり、不十分に実施されたりします。その結果、財務諸表に含まれる重要な誤謬や不正を発見できず、不適切な監査意見を表明してしまう可能性があります。
第二に、不正の見逃しです。特に職業的懐疑心を欠いた場合、経営者による不正リスクに対する感度が低下します。経営者の説明を鵜呑みにし、表面的な証拠だけで満足してしまうため、巧妙に隠蔽された不正を発見することができません。
第三に、監査基準違反の指摘です。監査の品質管理レビューや、日本公認会計士協会の品質管理レビュー、あるいは金融庁の検査において、正当な注意や懐疑心の欠如が指摘されることがあります。これは、監査法人や監査人個人の評価を著しく低下させます。
第四に、法的責任の発生です。正当な注意を怠ったことが原因で、投資家や債権者に損害が発生した場合、監査人は民事上の損害賠償責任を負う可能性があります。また、故意または重過失と判断されれば、刑事責任を問われることもあります。
第五に、社会的信用の失墜です。監査の失敗が公になれば、当該監査人や監査法人は、社会から厳しい批判を受けます。「あの監査法人は手抜き監査をする」という評判が広まれば、クライアントを失い、事業の継続が困難になる可能性もあります。
実際、過去の大規模な会計不正事件の多くは、監査人の職業的懐疑心の欠如が一因となっています。経営者の説明を批判的に検証せず、表面的な証拠だけで満足してしまった結果、巨額の粉飾決算を見逃してしまったケースが数多く報告されています。
例えば、日本国内でも、大手企業による会計不正事件が発覚した際、監査人が「なぜ発見できなかったのか」と厳しく追及されました。調査の結果、監査人が経営者の説明を鵜呑みにし、十分な懐疑心を持って監査を実施していなかったことが明らかになり、監査法人は社会的信用を大きく損なう結果となりました。
このように、正当な注意と職業的懐疑心は、単なる抽象的な理念ではなく、監査人が具体的に遵守しなければならない義務であり、それを怠った場合には重大な結果を招くのです。
実務における正当な注意と懐疑心の実践方法
それでは、監査人は実務において、どのように正当な注意と職業的懐疑心を実践すればよいのでしょうか。ここでは、具体的な方法をいくつかご紹介します。
第一に、質問力の向上です。職業的懐疑心を発揮するためには、適切な質問を投げかけることが不可欠です。「なぜこのような会計処理をしたのですか?」「他の方法は検討しましたか?」「この仮定の根拠は何ですか?」といった、本質に迫る質問を準備し、実践することが重要です。
第二に、矛盾や異常値への感度を高めることです。監査の過程で、前期と大きく異なる数値、業界平均と乖離した指標、内部で矛盾する説明などに遭遇した場合、それを見逃さず、徹底的に原因を究明する姿勢が必要です。
第三に、代替的説明の検討です。経営者から一つの説明を受けた場合でも、それが唯一の説明なのか、他の可能性はないのかを常に考えることが重要です。複数の仮説を立て、それぞれを検証することで、より客観的な判断が可能になります。
第四に、裏付け証拠の入手です。経営者の口頭説明だけで満足せず、書面による証拠、第三者からの確認、独立した情報源からの検証など、複数の証拠を組み合わせて裏付けを取ることが必要です。
第五に、チーム内での議論の活性化です。監査は通常、チームで実施されます。チーム内で発見事項や疑問点を共有し、活発に議論することで、個人では気づかなかった問題点が浮き彫りになることがあります。
第六に、過去の不正事例の学習です。過去に発生した会計不正事件の手口やパターンを学ぶことで、類似の兆候を発見する能力が高まります。定期的に不正事例に関する研修を受講し、知見を蓄積することが有効です。
第七に、時間的余裕の確保です。正当な注意を払い、懐疑心を発揮するためには、十分な時間が必要です。スケジュールに余裕を持たせ、じっくりと考え、調査する時間を確保することが重要です。
第八に、独立した視点の保持です。クライアントとの関係が長くなると、どうしても「慣れ」や「情」が生じ、批判的な視点が弱まります。定期的にメンバーをローテーションしたり、外部レビューを受けたりすることで、新鮮な視点を維持することが大切です。
これらの実践方法は、いずれも地道な努力を要するものです。しかし、こうした日々の積み重ねこそが、高品質な監査を実現する基盤となるのです。
当事務所における正当な注意と懐疑心の徹底
私たち公認会計士事務所においても、正当な注意と職業的懐疑心の保持を、監査品質管理の中核に位置づけています。
まず、監査計画段階からのリスク評価の徹底です。監査を開始する前に、クライアント企業の事業内容、業界環境、内部統制の状況などを詳細に分析し、どこに虚偽表示のリスクがあるのかを慎重に評価します。この段階で、懐疑心を働かせ、「疑わしい領域」を特定することが重要です。
次に、監査調書のレビュー体制の強化です。監査担当者が作成した監査調書について、上位者が詳細にレビューを行い、正当な注意が払われているか、懐疑心が適切に発揮されているかをチェックします。表面的な確認に終始していないか、経営者の説明を鵜呑みにしていないかを厳しく確認します。
当事務所では、「信頼しつつも検証する(Trust but Verify)」という姿勢を大切にしています。クライアントとの良好な関係を維持しながらも、監査人としての職業的責任を決して忘れず、常に批判的な視点を保持する——このバランスこそが、プロフェッショナルとしての監査人のあるべき姿だと考えています。
正当な注意と職業的懐疑心は、一朝一夕に身につくものではありません。日々の監査業務の中で、意識的に実践し、経験を積み重ねることで、徐々に自然な姿勢として定着していきます。私たちは、全ての監査人がこの姿勢を体得し、高品質な監査を提供できるよう、今後も継続的に取り組んでまいります。
監査業務に関するご質問やご相談がございましたら、ぜひお気軽にお問い合わせください。私たちは、正当な注意と職業的懐疑心を保持しながら、誠実かつ高品質な監査サービスを提供し、皆様の信頼に応えるべく、誠心誠誠サポートさせていただきます。
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投稿者プロフィール

- 労働者派遣事業許可に必要な監査や合意された手続に精通し、数多くの企業をサポートしてきました。日々の業務では「クライアントファースト」を何よりも大切にし、丁寧で誠実な対応を心がけています。監査や手続を受けなくても財産的基礎の要件をクリアできる場合には、そちらを優先してご提案するなど、常にお客様の利益を第一に考える良心的な姿勢が信条です。お困りの際は、ぜひお気軽にご相談ください。
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